朝起きたときは、平常だった。 何時も通りイネスに絡まれながらシングを罵りつつ食事を取り、宿を発った。 其処からは会話する妹とイネスを眺めながら独りで歩いていた。 ――不意に耳鳴りがして、一瞬立ち止まる。 シングが振り帰り心配そうな顔をしたから、慌てて追いついた。耳鳴りは、一瞬で止んだ。 俺は、そこから可笑しかったのかもしれない。 また暫く独りで歩いていたが、肩を叩かれるまでシングが俺に何か言ってるだ何て気付きもしなかった。 振り返ると、彼が唇を動かす。 『どうしたの?』 ――今、何て言った? 小首を傾げるとシングも不思議そうな顔をした。それからもう一度口を開く。 『…どうしたの、ヒスイ??』 ――聞こえない。何を言ってるのか、分からない。 体験した事の無い感覚に、俺が困惑に陥った。 とにかくシングには曖昧に頷き、無理矢理独りきりになる。 独りきりになり、改めて耳に神経を集中させるが、風の音もモンスターの動く音も、彼等の声さえも聞こえない。 無音の世界。 ひとりだけ、取り残された気分にさせられた。 『お兄ちゃん?』 隣まで寄ってきたコハクが此方を見、不思議な顔をする。 …自覚したくない。認めたくない。 何で、どうして。ほんの数分前までは正常に聞こえていたのに。シングの馬鹿な声も、コハクの誰かを心配する声も、ベリルの呟きも、イネスのゴ マをする声も、クンツァイトの機能的な声も、全部全部聞こえていたのに。どうして、今になって聞こえなくなったんだ。 分からない。分かりたくない。認めるのが怖い。 『ヒスイ!!』 ――不意に、誰かが何かを叫んだ気がした。 振り返ると其処には何時の間にか現れたモンスターが牙を向いていて、それを傍に居たコハクが俺の代わりに蹴りで薙ぎ払った。 『大丈夫?お兄ちゃん!』 ――駄目だ。本当に、聞こえない。 認めるしかないのか。この痛々しい現実を、受け止めるしかないのか。 「コハク、おれ」 ああ、自分の声さえも聞こえない。ちゃんと喋れているのかさえも危うい。 脱力して、座り込む。 『どうしたの?怪我したの??』 異変に気付いたシング達も俺とコハクの周りに集まってきた。 『ヒスイ?』 「きこえ、ない」 耳が、機能しなくなっている。 俺はこの事実を、‘事実’として認めるしかないのか。 その場を動けずに居ると、誰かの手が肩に触れた。 顔を上げると、そこにはシングが居た。 『俺の声も、聞こえない?』 …唇の動きがやけにゆっくりだった。 俺が聞こえないと言ったから唇の動きで読み取る様に促したのだろう。俺も何とか読み取ることが出来た。 ‘俺の声も聞こえない?’ 声を出しての肯定が出来ないから、頷いて肯定する。 『…朝までは聞こえていたわよね?』 『肯定。朝のヒスイは普段と変わらずに話していた』 遠くでイネスとクンツァイトが口を動かしている。きっと俺の事なのだろうけど、聞こえないから何を言ってるのか分からない。不思議がられているの か、罵倒されているのか、心配されているのか。それさえももう、理解できない。 聞こえないとは、こんなにも怖いことなのか。 目を閉じて蹲った。見たくない。聞こえないこんな世界、見たくない。 ――目を閉じたままその場に蹲っていると、誰かの手が触れた。 それから、抱き締められた。 『ヒスイ』 聞こえない筈なのに、何故かシングに名前を呼ばれた気がする。 少しだけ目を開けると、目の前に居たのは案の定シングだった。 『大丈夫だよ、ヒスイ』 聞こえないけど、言わんとしている事は分かる。 ‘大丈夫’ きっと彼はそう言ってるのだ。 何が大丈夫なんだ。さっぱり分からないけど、何故か安心できて、その胸板に体を預けた。 *きこえない 10-01,16 因みに文を反転するとシング達が言ってる言葉が分かります。 Back |