※パスカルさんご乱心



じりじりと男が近付く度に、同じ歩数だけ足を後退させる。こちらに手を伸ばす男は悲しい顔を浮かべていた。

「もういい、よせ」

もういい――何が?
よせ―――何を?

そうしてまた一歩男が踏み出し、こちらも一歩後ろに引き下がった。
もう足場が無い。次に後退したら、私の体は深い深い悲しみの色に落ちる。
フェンデルの海は冷たいから、凍死ぐらい覚悟しておくべきなのかも。

自嘲した。
もう、どうでも良くなった。

実らない恋だとは最初から分かっていた。
彼には思い人が居る。その人はもう死んでしまったから、争うことすら叶わない。
だから心に鍵を掛けた。
彼への思いを無理に押し殺して、誰も居ない場所で涙を零した。
せめてこの思いにだけは気付いて欲しくて。

答えて欲しいとは思わない。あたしが彼の隣に並ぶのは夢の世界だけだと知っていた。
だけどあたしが好きだってことは、それだけは気付いて欲しかった。
振り向かなくて良いから名前を呼んで。
叶わなくて良いから貴方を思わせて。
そう思ってた。

だけど、



結局、貴方はあたしの思いには気付かず。
天界に住む彼女だけを追いかけた。
一度も見てくれなかった。


だから、もう良いの。



「パスカル、こっちへ来い!落ちるぞ!」
ほらね、やっぱりあたしの思いに気付いていない。
こんなに愛してるのに。
貴方だけを追いかけたのに。



背中に感じる潮の音。荒れ模様の海。


「ばいばい、王子様」


涙が海に溶け込んだ瞬間、あたしの体も泡となって水に沈んでいった。



*人魚姫の涙
(愛されないのなら、いっそ)



10-04,13




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